岸和田市市制施行100周年記念誌
岸和田のいまむかし28-29ページ
岸和田近代化物語
大阪の産業の発展をリードした
煉瓦産業に始まり、紡績・鉄工・ガラスレンズなどの分野で発展を遂げてきた岸和田市の産業。その歴史と、今も世界に誇る技術力をご紹介します。
岸和田煉瓦製のレンガの多くに「×(クロス)」の印があるのは、創業の山
岡がキリスト教信者だったからともいわれる。岸和田市内にもモニュメントとして保存されたレンガ塀が残る
煉瓦・紡績が牽引した岸和田の近代化産業
明治時代、岸和田の主要産業の一つが煉瓦産業でした。岸和田の粘土が煉瓦の製造に適していると知った元岸和田藩士の山岡尹方は、廃藩置県で職を失った武士たちへの授産事業として、明治5年(1872)に煉瓦製造事業を開始。その後、一時経営は不振となりますが、岸和田きっての実業家・寺田甚与茂らが手を差し
のべ、明治20年(1887)に第一煉瓦製造会社を設立。明治26年(1893)に岸和田煉瓦株式会社へ改称し、のちに〝岸煉(キシレン)〞の名で親しまれるようになります。急激な日本の西洋化とともに煉瓦の需要は高まり、岸和田にはほかにも大阪窯業の工場などが立ち並び、煉瓦の一大産地となりました。岸煉製の煉瓦はさまざまな建造物での使用が確認されており、旧山口県庁舎および県会議事堂や、同志社女子大学ジェームズ館など、今も日本各地に残っています。
そして、煉瓦産業と並んで岸和田を代表した近代産業が紡績産業です。明治27年(1894)、寺田甚与茂は、最新の紡織の機械技術と大量の綿花を輸入し、岸和田紡績株式会社を設立。日本有数の大企業に成長させました。
岸和田の煉瓦・紡績産業の発展は大阪全体の近代化を支え、泉州を含む大阪湾沿岸部の一大工業地帯は、産業革命で世界の綿工業の中心となったイギリスの都市にたとえられ「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになりました。
昭和16年(1 9 4 1)、太平洋戦争が開戦。岸和田ゆかりの企業が軍需産業への転換を余儀なくされます。岸和田紡績も、政府の国防強化策のなかで大日本紡績に吸収合併されました。終戦を迎えると、GHQによる財閥解体が行われ、軍需産業は急速に衰退。民需産業が少しずつ再生し始めるなか、岸和田では昭和23年(1 9 4 8)に、中小企業が力を合わせて「岸和田商工会議所」を発足し、繊維業と貿易の振興に力を尽くしました。
昭和30年代に入ると日本は高度成長期を迎えます。東京オリンピックの開催や大阪万国博覧会開催に向けた、道路の整備やビルの建設などの多くの需要に応え
るため、岸和田でも沿岸部の埋立地造成が始まり工業地帯が拡大していきました。昭和41年(1966)には、臨海町に金属加工業者が40社以上集結する、敷地約1
0万坪の大阪鉄工金属団地が作られ、同年に東洋一の木材工業集積地をめざした巨大な木材コンビナートも完成。日本の高度成長を支えました。
未来へ繋ぐ産業地帯の整備へ
昭和後期から平成にかけては、バブル崩壊やアジア諸国からの輸入品増加などの影響を受けて全国的に景気が低迷。岸和田市からも大企業が次々と撤退していくなど、経済の成長・拡大路線は一旦歯止めがかかります。しかし近年は、企業の誘致などを図る沿岸部埋立地の「阪南2区(ちきりアイランド)」と、丘陵エリアの「ゆめみヶ丘岸和田」の開発、「木材港地区 貯木場利活用ビジョン」(下記)など、岸和田市の産業を再び活性化させるための、数々の産業振興ゾーンの整備が進められています。これらは、未来へのまちづくり推進プロジェクトの一環でもあり、快適に働ける施設とインフラの整備、環境への配慮などさま ざまな目的を持った事業として期待が寄せられています。
「東洋一の木材工業集積地」をめざして昭和41年(1966)に完成した木材コンビナート。総面積200ヘクタールを超え最盛期には多くの合板工場が並び、貯木場には南洋材の丸太がびっしりと浮かんでいました。しかし昭和50年代以降から徐々に利用率が低下。そこで、この土地を「日本の未来をリードする先端産業創造空間」とすることをめざし、関係機関と協議しています。