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浪曲の父、二代目 吉田奈良丸(ミニ岸和田再発見第16弾)

更新日:2015年8月4日掲載 印刷ページ表示

 二代目吉田奈良丸(後の大和之丞)は、明治から大正にかけて、浪曲の黄金期を築いた浪曲師。明治12年奈良県下市町の生まれ、本名、廣橋廣吉。千日前愛進館で口演中の初代に入門。師の教育を受けながら、吉田小奈良を名乗り浪曲師としてデビュー。23歳の若さで二代目吉田奈良丸を襲名、明治41年に上京して新富座で口演し連日大入りとなって人気を博した。明治43年レコードに初吹き込み。明治44年(32歳)には総生産枚数67万枚のうち50万枚を売上げた。実に総生産枚数の75%を占め、贅沢品だった当時の蓄音機の普及台数を考えると、驚異的な数字であり、浪花節の人気が日本のレコード産業の基盤を作ったとも言える。大正初めには、奈良丸の浪花節を歌謡曲調に改め、三味線に合わせて演じたものが「奈良丸くずし」と呼ばれブームとなりレコード化されたため全国津々浦々に広まり、ヒット歌謡の先駆けとなった。

 大正6年には渡米。太平洋沿岸を巡業して、在米同胞を慰問し大統領とも会見した。米国ビクターでは、邦人初のレコーディングを行うなど日米文化交流にも尽力。

 研修の場として「浪曲研究所」を設立、終生浪曲の社会的地位向上を心して「浪曲の父」と敬愛された。大正14年(46歳)にはラジオBkの放送が始まり、初の浪曲出演を果たす。ラジオ放送との相乗効果でレコードも売れて、ますます浪曲人気は隆盛することとなる。

 昭和4年には春日神社から「吉田大和之丞」を拝命し、これを機に名跡を門弟の一若に譲って三代目を襲名させた。敬神の念篤く、各地で寄進興行を行い収益を奉納したほか昭和10年には、発起人となって私財のほとんどを投げ出し、京都山科の地に大石神社を創建し、大石良雄の徳を讃えた。

 大和之丞となってからも浪曲界に君臨し、神戸の大正、南明、祇園の各座、新開地の三笠など多くの小屋を経営した。昭和22年6月8日、経営する岸和田市下野町にあった和泉座の天井が満員の客席に落ち、死傷者多数。賠償に苦慮する。岸和田市史には80名余りの死傷者があったと記される。昭和23年には実娘が二代目春野百合子として浪曲界にデビューするが、劇場が倒壊したことも入門する契機になったようだ。入門5ヵ月目の初の高座が襲名披露という離れ業であった。春野百合子は、女流浪曲の第一人者、また関西浪曲界の最高峰として長く活躍し浪曲親友協会の会長をつとめた。平成6年には紫綬褒章を受章し、親子2代にわたって勲章を授与される栄誉に浴した。

 大和之丞は、昭和27年に下市町最初の名誉町民に推され、昭和41年には浪曲界で初めての勲五等双光旭日章を授与されたが、翌昭和42年1月20日に死去。享年88歳。流木町の岸和田市墓苑に葬られた。