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泊園書院(はくえんしょいん)と岸和田(ミニ岸和田再発見第20弾)
泊園書院は江戸時代後期の文政8年(1825)、大阪に開かれた漢学塾です。幕末には大阪最大規模の私塾として栄えました。幕末から明治・大正・昭和という日本の激動期をくぐりぬけて、政界・官界・実業界・教育界・ジャーナリズム・学術・文芸などの分野で人材を輩出し、大阪の文化・教育の発展のために大きく貢献しました。書院は昭和23年(1948)120余年にわたる歴史に幕を閉じますが、その二万数千冊にのぼる蔵書および膨大な自筆稿本類は昭和26年(1951)関西大学図書館に「泊園文庫」として寄贈されました。泊園書院の精神を受け継ぐ「泊園記念会」も大学に置かれて記念講座が開かれ「東西学術研究所」に引き継がれています。詳しくは関西大学のホームページの「東西学術研究所」にある「泊園記念会・泊園文庫」で紹介されています。是非ご覧ください。この泊園書院と岸和田市には多くの繋がりがあるんです。
学問の源流は荻生徂徠(おぎゅうそらい)で、徂徠に学び大阪に戻ったのが菅甘谷(すがかんこく)です。大阪に徂徠学を伝えた最初の人物となります。彼は岸和田藩士、府川家に生まれ堀家の養子となります。職を辞してから大阪に出て古文辞を教え田中鳴門、細合半斎、篠崎三島、葛子琴、藤川東園、兄楽郊、片山北海など多くの師弟を育てます。「南嶠園集」「甘谷先生遺稿」等が残されています。
また、春田横塘(はるたおうとう)も岸和田の人、本姓は土生氏、訳あって春田を名乗ります。江戸の昌平校で学び、大阪伏見町に塾を開きます。漢詩や書の達人として知られます。「唐明詩類函(とうみんしるいかん)」「古詩筌(こしせん)」等の著作が残されています。
岸和田藩校の教授相馬九方も中山城山に学んでいます。藤澤南岳(ふじさわなんがく)は東畡(とうがい)の長男で、父から泊園書院を継承し、門人は数千人に達したと言われ隆盛を極めます。息子である藤澤章次郎【黄坡(こうは)】は明治9年に生れ、幼少より父南岳に漢籍を学び、明治29年、東京高等師範学校を卒業後帰阪して、岸和田中学(現在の岸和田高校)で漢学を教えます。明治44年、同中学を辞し、泊園書院分院を開きますが南岳が亡くなり兄の黄鵠が引退した後はここが本院となります。漢学の普及に努め、大正11年に関西大学予科講師に就任。昭和4年、教授となり、同13年、定年退職した後も引き続いて非常勤講師として教鞭を執ります。同23年、名誉教授(初代)の称号を受けます。彼には「文天祥略伝」「三惜書屋初稿」等の著作があります。昭和23年に没し、これにより泊園書院は幕を閉じることとなり、前出のとおり関西大学に引き継がれています。