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牧野富太郎(まきのとみたろう)と服部雪斎(はっとりせっさい)(ミニ岸和田再発見第9弾)
牧野富太郎は植物の新種や変種2500種を発見・命名し「日本の植物学の父」といわれています。代表的な著書『牧野日本植物図鑑』は皆さんも一度は目にしたことがあると思います。
自叙伝によると、造酒屋に生まれたが幼くして両親を亡くしたため祖母に育てられます。明治九年頃小学校が嫌になって退校してしまい、本を読んだり、植物が好きで裏山で植物を眺めたり採ったりして過ごしたようです。小学校中退でありながら独学で知識を積み、東京帝国大学に助手時代から47年間勤め、理学博士の学位も得ています。誕生日の4月24日は「植物学の日」とされています。
17才の頃、近所の医家に『本草綱目啓蒙』の写本が数冊あって色々の植物が載っていたので、どうしても欲しくなり取寄せて貰い、入手したのが『重訂本草綱目啓蒙』(岸和田邸学蔵版)でした。「それ以来、この本をひっくり返して見ては色々の植物の名を憶えた。当時は実際の知識はあるが、名を知らなかったので、この本について多くの植物の名を知ることができ、自分の実際の知識と書物とで、名を憶えることに専念した。」と「牧野富太郎自叙伝」に書いています。図譜が植物の同定に役だち、富太郎の植物学の基礎はこの時代に身に付いたと言えます。
「むかごにんじん」「ふたりしずか」などもこの頃に図譜で名称が判明したと書かれています。
練馬区立「牧野記念庭園」では、度々企画展が開催されていますが2010年のリニューアルオープン記念として富太郎が蒐集した膨大なコレクションから「牧野富太郎の植物画コレクション-服部雪斎・関根雲停(うんてい)を中心に-」が開催されました。
ここに取り上げられた服部雪斎は、富太郎が植物の名前を覚えるきっかけになった「本草綱目啓蒙図譜」の画家です。雪斎は関根雲停、中山仰山(こうざん)とともに、日本の三大博物画家といわれています。雪斎の生い立ちや経歴はよく分かっていませんが、谷文晁(たにぶんちょう)門下で田安家の家臣遠坂文雍(とおさか ぶんよう)の弟子とされています。岸和田藩の絵師として「本草綱目啓蒙図譜」の編纂に参画し、山草の部に細密な植物画を描いています。
明治維新後は博物局(現東京国立博物館)の画家となり、同局編『動物図』や『日本産物志』などに優れた図を残しました。当時の博物局のスタッフが中心となって東京・湯島聖堂大成殿を会場として日本最初の博覧会が開催され、後の国立博物館の基礎が作られました。他にも『目八譜(もくはちふ)』、『朝顔三十六花撰』、『華鳥譜(かちょうふ)』『教草(おしえぐさ)』等数多くの博物画の秀作を残しています。
岸和田ゆかりの本が接点となって二人の英俊が繋がっているなんて面白いですね。