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神於山は、古代から私たちの祖先にとっては「神のおられる山」として、神様が自分の守っているところをながめる山、別名「国見山」とも呼ばれ、神体山として山そのものが崇拝の対象となっていました。古代から和泉国は、気候が温和で、めぐまれた湧き水があり、多くの人々がくらしていました。和泉葛城山、神於山、久米田池などにつながる自然環境は、地域の人々に貴重な水を供給してきました。弥生時代に発生した水稲耕作は、水が必要不可欠なものであったが、当時の技術では牛滝川・津田川は大河であり、谷も深く、この水を利用することは難しかったと考えられます。このため、神於山に源を発する春木川・天の川が稲作に利用できる唯一の流水であり、その水の源である神於山は、「命の水」を発するところとして大切にされていました。
水の信仰にささえられた神於山信仰は、雨乞い行事にみられる山岳信仰と仏教の融合で、神社や寺を設けて行場とする修行道により、さらに信仰が深められ、中世には百八坊大伽藍をほこったといわれています。また山麓にある積川神社・意賀美神社は雨乞いの神として尊崇されてきました。
また、京の都から東高野街道を通り、現在で言う河内長野から和泉市横山地区、岸和田市内畑町、河合町を抜け、和歌山方面へ至る道は地政学的に都からもっとも近いことから、神於山周辺は岸和田の中心的な位置を占めていたと考えられています。
1489年、神於寺は紀伊国の根来寺による焼き討ちにあって以降、根来寺の勢力の下におかれました。その後、根来寺は織田信長に協力することとしたため、神於寺も1577年の信長による紀州攻めに協力したと考えられます。
信長没後の根来寺は豊臣秀吉に反旗を翻したことから、1585年の秀吉による紀州攻めの際に神於寺は完全に灰となってしまいました。また、文化や政治の中心が平地部に移ったことにより、江戸時代を通じ神於山周辺は衰亡の一途をたどってしまいました。
「岸和田の土と草と人」著者:小垣廣次より
しかし、燃料革命以降、人々はエネルギーとして、山の恵みをあまり必要としなくなり、人と山の共生関係は崩れてしまいました。人の手があまり入らなくなった神於山はバランスを崩してその姿を変えてしまいました。竹やつる性の植物が繁茂し、植物相が激変しました。また、心無い人によるゴミの不法投棄の場になるなど、今までにない荒れた山となってしまいました。
平成10年頃から昔の里山の姿を取り戻そうという機運が高まり、さまざまな活動がおこなわれるようになりました。平成15年には地域住民だけでなく公共団体も含めた36団体で構成される神於山保全活用推進協議会を立ち上げました。
そして自然再生推進法の適用を受け、現在も、漁業林業者、ボランティア、社会奉仕団体、学校、企業など、たくさんの方々が里山再生・自然再生のために活動しています。
その結果、当初問題とされていた荒れた山は、少しずつ昔の姿を取り戻し始めました。